日本初なまこ石鹸を開発した海生堂です。昭和56年創業、沖縄の自然を原料に、オジー・オバーの知恵に習った手作り商品の製造

元祖:「モリンガ石鹸」「なまこ石鹸」 有限会社海生堂 代表取締役 比嘉明

     海生堂公式ホームページはこちら⇒モリンガやなまこの手作り石鹸 「海生堂」

2020/8
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海生堂比嘉明
     有限会社海生堂
    代表取締役 比嘉明

       ごあいさつ

 生き物全てが海から生まれてきたそうですね。だからよく「母なる海」とか言われるのだと思います。
 私は沖縄に生まれ沖縄で育ちました。沖縄の素晴らしい自然と人を生かし、人に喜んでもらえる仕事がしたいと思っていました。
 「海生」って=沖縄の海を生かした(活用した)。と言う意味ですか?と時折聞かれますが、それは違いまして、私は=海によって生かされている自分達がいる。自然の産物がなければ生きらない。海に感謝しよう!・・・と言う意味で社名をつけました。

 ・・(有)海生堂の起業前になりますが、飛行機内から眼下に広がる沖縄の海を見ていました。
見慣れたヤンバル(沖縄本島北部地域)の海が眼中に入ってきた瞬間に「なんてきれいなんだろう・・私達、人間はこの海に生かされているんだなあ・・・私達はどこから来て、何処から生まれ、そしてどこへ還っていくのかなあ・・・この自然のメッセージは何を伝えようとし、私に何ができるのだろう」・・・との思いが胸中にこだましました。

 20代の頃、故郷沖縄を離れ東京に住み、様々な仕事、事業を経験しました。都会には夢がある、経済的、物質的、欲望を満たすものがたくさんあることを知りましたが、逆に故郷沖縄の南国時間の流れ方、沖縄の伝統・文化・自然へのやさしさ・つながりの大切さを再認識させてもくれました。

 「私達人間の全ての起源は海に在り、また自然界は海と共に海に生かされている。眼に見えるもの見えないもの含め全ての五感が自然のリズムと一体であり宇宙のリズムも同じ法則で動いてる。それを生命のリズムと言う。全ての命は過去より未来に渡る流れの中で自然と問答しながら生きている。」

 ・・そんな思いを込めて、身近にあった海に感謝し、自然からの材料で商品を開発いたしました。沖縄の民謡を流しながら、沖縄全てを染み込ませながら、感謝の思いを込め、1つ1つを手作りで真心込めて作っています。これからも本物を作り続けたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

沖縄の昔

沖縄の昔・・・私の家系は調べた結果、
13世紀後半の琉球王朝時代、王の書記官をしている所までは調べましたが、
その前は記録がありません。
と言う事は、私は600年以上の純粋な沖縄サラブレットと言うことになりますかね?

14世紀に入り志摩に戦略されてあと、
私たち先祖はヤンバルの奥間地域の土地を頂き、
山で琉球織物や木で墨を作り、
ヤンバル船で那覇まで木炭を売りに行く商売をしたそうです。

ある時、大きな台風が来て、山崩れがおき、
織物工場は流されたそうです。
今でも、山崩れあとに、
大きな染料ガマが口の部分だけ地上に出ていて、
そこは比嘉家のウガン所(祈りや祭事に使用する場所)として今も保存してあります。

その後、第二次世界大戦が訪れるのですが、
その間の村は大変に平和だったそうです。
地域の村民が協力し公共的なものを手作りで作り配り、
皆で子供を育て、皆で歌を作りサンシンで踊り、
皆で笑い泣く、一村共同体だったそうです。

そんな中で、例えば料理・祭事などに必要な「塩」は
どうやって作っていったのでしょうか?

・・それは今の奥間ビーチの砂浜に村の共同塩製作所があったそうです。
塩の製作所と言っても簡単なもので、
シンミナービ(沖縄ガマ)に海水を汲んで入れ、
そのなべを火で熱するだけのシンプルな塩製造所です。

海水の汲み上げなどの仕事は子供の仕事で、
時折なべを覗いては蒸発した分の海水を足していく。
火が弱ければまきを足す等、
その塩を村民が必要な時に必要な分だけ取りに来る
・・そんな塩製作所があったそうです。

さて、今では世界的に有名な奥間ビーチの塩製作所ですが、
第二次世界大戦を機に消滅します。

戦争の時は皆、山に隠れて生活をしていたそうです。
「アメリカ軍に見つかれば拳銃で撃たれ殺される、
子供や年寄りは軍用犬にかみ殺される」と噂が流れ、
皆息を殺して防空壕や岩陰で昼間を過ごし、
夜に食べ物を探しに、歩き回る生活だったそうです。

戦時中は、そこら中で、
アメリカ軍、日本軍、親戚、知り合いが、
むごい姿で死んでいて、悪臭を放し、
そんな中を私の父は10歳で食料を探しに出たそうです。

ある時、父が木の向こうからアメリカ軍らしき人たちが
食料を探している時に出くわしたそうです。

木の上で見張り役をしていた村民が
「ひんぎれー」(にげろ)と言った瞬間に、
マシンガンのようなものがそこら中を打ち始めたそうです。

火の線が数百発・・・
大きな爆竹音がものすごい音で向かってきたそうです。
私の父は友人数名と草むらに伏せたそうですが、
頭の上、数センチの所をたくさんの玉がかすめたそうです。

まるでそこら中の草むらが、
鋭いカッターの様なもので
大量にきれいにカットされたようになったそうです。

うめき声や、火薬のにおいの中、逃げたそうです。
そんな戦争中に私の父の母は死にました。
私のオバーちゃんにあたる人です。
男の子は父一人で当時10歳、姉13歳、妹7歳の3人が残されました。

死んだ母親を目の前にし、姉妹で土に埋めようとしましたが、
土が固くて手では掘れなかったそうです。

そこで男一人の父は10歳の小さな体で、
死んだ母親を背負い母親の足を地面にすりながら、
山を下りたそうです。

その後ろから泣きながらついてくる姉妹も、
アメリカ軍に見つかる恐怖と、母親の死と言う悲しみを持ちながら
一緒に山を下りたそうです。

そしてたどりついた場所が、あの奥間ビーチの砂浜でした。
砂浜は土と比べて、子供でも掘りやすく、
兄弟で母親を埋める穴を手で掘ったそうです。

・・・今では「だいたいアノ辺がお墓に当たるのかな?」と父が教えてくれますが、
はっきりとした、おばーちゃんのお墓はわかりません。


メイド・イン・オキナワ

メイド・イン・オキナワまさか自分が塩や石鹸・化粧品を作る仕事をするなんて・・思っても見なかったですね!

生まれは那覇市楚辺、
10歳の時に普天間基地の隣、宜野湾市に引っ越してきました。

実家はヤンバルの国頭村(クニガミソン)、
沖縄の一番ヤンバルにあるリゾート地、「JALの奥間ビーチ」の隣村です。

簡単な履歴は、沖縄県立西原高校普通科を卒業後、
鹿児島の専門学校(電気系)を卒業して東京の会社に勤めたあと
学習塾・予備校・保育園等を数校、経営していました。

主に塾では、社会で沖縄の歴史を生徒達に教えていましたね。
沖縄を教える自分が沖縄のことを知らないのに気づき、
一生懸命に地元のこと、自分の家系のこと、妻の島のこと(宮古島)などを
本やオジー・オバーなどに聞いて勉強しました。
・・聞いているうちに昔の方々のすごさ(生活の知恵)を実感させられました。

何にもない時代に「シャンプーはどうしたの?」
「塩、みそ、米、醤油はどうしていたの?どうやって作ったの?」
「歯が痛いときは?おなかが痛いときは?・・・・」
「なぜこのお祭りはあるの?」
「(うーとーとー)って何の意味?」
「ユタは本当に幽霊が見えるの?」
「なぜ沖縄でも場所によって方言が違うの?」・・・・等、

きりがないくらいに、思いつくままに聞いて、調べて行きました。
そして、自分で昔の製法を試していろいろなものを作ってみました。
そこで知った先祖の知恵!すばらしいものがたくさんありました。

現代にかけている、他への思い、気配り、同調。
その裏にある人間に大切なもの・・・
肉体的な栄養素・こころの栄養素・地球環境への栄養素・・などです。
そのこころが生まれた背景には、残酷な戦争・領地争いなどの経験を積んで出来たもの、
犠牲の代償に得たものであることも・・・知りました。

・・・ 私は、沖縄で出来たすばらしい物を
沖縄発で日本に世界に紹介できないだろうか?
・・でも沖縄を素材にした商品は今たくさん出回っている。

なぜメジャーにならないのだろうか?
メジャーになれないのは、沖縄人のビジネス性格もある。商品の内容もある。
生産能力の関係もある。島、離島という流通の壁もある。

たくさんの理由はあるけれど、昔は貿易の国、琉球王国であったはず。
出来ないことはない!

何とか沖縄の全てのこころを積んだ商品を作り、
たくさんの方々に認めてもらえるものを、ここで作りたい。
雇用の促進、観光地としての付加価値アピール、ウチナーンチュとしての誇り、
メイド・イン・オキナワを広げたいと思いました。

商品は沖縄民謡をcdで流しながら、時折、自分でサンシン(沖縄三味線)を弾きながら
商品に沖縄を染み込ませながら、
ゆっくりした沖縄タイムで使用する人のことを思いながら作っています。

・・・私達は小さな会社です。
沖縄県内にいても見つけにくいくらいの小さな小さな存在です。
生産能力もあまり高くありません。経済的ゆとりもありません。
だからこそ、できる所から始めました。

今までの貯金、稼いだお金等、全てを使って実験、調査、研究をし、
やっと特許出願し、
小アイテムですが、商品が完成しました。

スタート当初は私一人だったのが、一人一人、協力者や理解者が出てきて、
今では沖縄県内のリゾートホテルや、東京・アメリカの3ツ星レストランのシェフにも認められ、海草塩はさまざまな有名なお店でもあつかってもらえるようになり、
現在使用してもらっています。

私たちの会社はちっぽけな存在です。
これから、益々、協力・理解者と共に、商品・会社・経済的な面で努力し、
大きくしていこうと思います。

商品の注文に製造が追いつかない注文もありますが、
なにせ手作りゆえに、自然の法則に逆らえずに作っているため、
発注待ちの方はご理解いただきたいと思います。

ここが(有)海生堂西原工場「化粧品製造許可証」「化粧品製造販売許可証」 →


有限会社:海生堂 代表:比嘉 喜美代
〒番号:901-2114
所在地:沖縄県宜野湾市真栄原2丁目6-19
電 話:098-894-8060 FAX:098-894-8061

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